名探偵シャーロック・ホームズと相棒ジョン・H・ワトスン。この名コンビが初めて出会い、記念すべき第一の事件に挑んだのが、アーサー・コナン・ドイルの『緋色の研究』です。事件の全貌から作者の秘めたる思いまで、ミステリの歴史に燦然と輝くこの名作をミステリファンの視点で掘り下げていきたいと思います。
ホームズシリーズの幕開け
ミステリ小説を愛する者にとって、シャーロック・ホームズという名前は特別な響きを持ちます。あのベイカー街の奇才と、彼を支え、その驚異的な頭脳の活躍を世に伝えたワトスン博士。この伝説的なコンビがどのように誕生したのか、その物語の幕開けこそが、何を隠そう『緋色の研究』です。
初めてこの作品を手にした時、私はまず、ホームズとワトスンの出会いの描写に釘付けになりました。戦争で傷つきロンドンに戻ったワトスンが、生活の足しにと同居人を探す。そこで紹介されたのが、あのホームズ。初対面でワトスンの過去を言い当てる彼の洞察力には、ワトスンならずとも度肝を抜かれます。化学実験に没頭し、常識的な知識には驚くほど無頓着でありながら、犯罪に関するあらゆる情報を頭に叩き込んでいる――。そんなホームズの奇妙な魅力に、ワトスンが少しずつ惹かれていく様子が、何とも言えず微笑ましいです。彼の語り口を通して初めてホームズの人となりが描かれる「ワトスン・システム」は、この第一作目から完璧なまでに確立されているといえます。
名コンビの初事件
コンビとして彼らが最初に挑むのが、ロンドンの空き家で発生した毒殺事件です。遺体は裕福なアメリカ人、エノク・ドレッバー。現場には血文字で「RACHE(復讐)」と記され、女性の結婚指輪が残されていました。スコットランドヤードのグレグスン警部やレス トレード警部といった面々が途方に暮れる中、ホームズは遺留品や足跡、タバコの灰といった些細な証拠から、犯人の身長、職業、さらには顔色までをも推理していきます。彼の鮮やかな分析と、それを見守るワトスンの驚嘆。これぞ我々がホームズに求める「醍醐味」です。物語は、ドレッバーの秘書、ジョゼフ・スタンガスンの刺殺事件へと続き、混迷を極めます。
真犯人逮捕と二部のスタート
ホームズは冷静沈着に事件の背後にある「緋色の糸」を辿り、ついに辻馬車の馭者、ジェファスン・ホープこそが真犯人であると突き止めます。その逮捕劇は、まさに劇的です。
『緋色の研究』が他の短編と一線を画すのは、事件の捜査を描いた第一部から一転、第二部で犯人ジェファスン・ホープの壮絶な過去が語られる点です。舞台はアメリカ、モルモン教徒が支配するユタの砂漠。ホープは、愛するルーシー・フェリアがモルモン教の因習によって引き裂かれ、挙げ句の果てに命を落とす様を目の当たりにします。その復讐のために、彼は数十年間、ドレッバーとスタンガスンを追い続け、ついにはロンドンで宿願を果たします。この第二部は、まるで西部劇のようなロマンスと悲劇に満ちた物語で、事件の動機に深みと人間味を与えているといえます。
このモルモン教徒の描写については、当時から今日に至るまで議論の的となってきました。作者コナン・ドイル自身も、後に娘を通じて作品中の描写に誤りがあったことを認めています。当時の一般的な偏見が色濃く反映されている部分ではありますが、作品が書かれた時代背景を理解しつつ読むことで、より多角的に物語を捉えることができると思います。
ドイルのホームズシリーズに対する認識
ところで、ドイルがホームズというキャラクターに「うんざりしていた」という逸話は有名です。彼は自身が本当に書きたいのは歴史小説であり、探偵小説は「軽薄な」作品だと考えていたといいます。しかし、皮肉にもその「軽薄な」キャラクターこそが彼を不滅の存在にしました。そんな作者の複雑な心境を考えると、彼の作品は一層興味深く感じられます。
タイトルの意味とは
そして、この作品のタイトル「緋色の研究(A Study in Scarlet)」の意味合いも、深く考察すると面白いです。日本語では「研究」と訳されるのが一般的だが、一部の翻訳者からは美術用語の「習作」ではないかという声も上がります。ホームズ自身が、人生という無色の糸の中に紛れ込んだ殺人という緋色の糸を解き明かすことを「芸術の専門用語を使えば、緋色による習作といったところではないか?」と表現しているという逸話もあります。ドイルにとって、事件の解決は論理的なプロセスであると同時に、一種の創作活動でもあったのかもしれません。
『緋色の研究』の魅力
『緋色の研究』は、その特異な構成や一部の描写が現代の読者には戸惑いを与えるかもしれません。しかし、この一冊がなければ、私たちが愛してやまない名探偵と、彼を取り巻く壮大な物語は生まれませんでした。ホームズとワトスンの出会い、卓越した推理、そして復讐という深いテーマ。すべてが詰まったこの原点に立ち返ることは、ミステリファンにとって至福の体験になるはずです。
『緋色の研究』作品データ
事件のポイント
- 始まりの出会い:軍医ジョン・H・ワトスンと風変わりな「諮問探偵」シャーロック・ホームズのベーカー街221Bでの共同生活の開始。
- ロウリストン・ガーデン事件:ロンドンの空き家で発見されたアメリカ人エノク・ドレッバーの毒殺死体。現場には血文字で「RACHE(復讐)」と書かれ、女性の結婚指輪が遺されていた。
- 第二の殺人:ドレッバーの秘書、ジョゼフ・スタンガスンが宿泊先のホテルで刺殺体で発見される。彼の傍らにも「RACHE」 の血文字と二つの薬が残されていた。
- 犯人の特定:ホームズは、警察が見落としていた足跡、タバコの灰、辻馬車の轍などのわずかな手がかりから、犯人が辻馬車の馭者、ジェファスン・ホープであると突き止める。
- 復讐の物語:事件の背景には、ユタ州を舞台とした壮絶な過去がある。ジェファスン・ホープは、愛するルーシー・フェリアがモルモン教徒によって引き裂かれ、父を殺され、自身も病死したことへの復讐を誓い、数十年間かけて犯人を追跡した。
- 毒薬の決闘:ジェファスン・ホープは、ドレッバーに毒の入った丸薬と無害な丸薬を選ばせる「毒薬の決闘」を挑み、勝利する。スタンガスンにはナイフで対抗し、殺害に至る。
- 結末:逮捕されたホープは、持病の大動脈瘤により獄中で病死し、人間の法の裁きを受けることなく生涯を終える。ホームズの功績は新聞では警察の手柄とされ、ワトスンがその活躍を記録することを決意する。
謎解きQ&A
- 犯人ジェファスン・ホープの動機は何ですか?
彼の動機は、愛するルーシー・フェリアとその父ジョン・フェリアへの復讐です。モルモン教徒の因習によりルーシーとの結婚を阻まれ、ルーシーの父は殺害され、ルーシー自身も強制結婚の末に心労で病死したことへの深い恨みが、彼を復讐へと駆り立てました。 - ホームズが犯人を見破った決定的な手がかりは何でしたか?
複数の手がかりが積み重なりましたが、特に重要だったのは、現場に残された女性の結婚指輪、犯人が吸っていた特定の葉巻の灰、そして、現場付近で見られた辻馬車の轍です。指輪の持ち主を装って犯人をおびき出そうとした際、老婆に変装した若い男に追跡を巻かれたことから、ホームズは犯人が巧妙な変装術を使うこと、そしてその指輪が犯人にとって非常に重要なものであると確信しました。さらに、スタンガスン殺害現場で発見された二つの薬が、ドレッバー殺害の手法を示唆していました。
余談
- ワトスンの傷は、なぜ作品によって部位が変わるのですか?
『緋色の研究』では、ワトスンは第二次アフガニスタン戦争で左肩に重傷を負ったと記されています。しかし、後の作品では、その傷が足にあると描写されることがあります。これは、コナン・ドイル自身による初期設定の描写の不一致、または「小さな矛盾」として、シャーロキアンの間で長年議論されてきた点です。 - なぜ「緋色の研究」というタイトルなのですか?
ホームズ自身が、事件を解決する自身の推理活動を「人生という無色の糸の中に紛れ込んだ殺人という緋色の糸を解き明かすこと」と表現し、「少しばかり芸術の専門用語を使えば、緋色による習作といったところではないか?」と語っています。日本語では「研究」という訳が広く知られていますが、原題の “A Study in Scarlet” には美術用語としての「習作」という意味合いも込められていると考えられています。 - モルモン教徒の描写について、作者コナン・ドイルはどのように考えていましたか?
コナン・ドイルは、当時の広く流布していた情報に基づいてモルモン教徒を描写し、作品中の主張は歴史的事実に基づいていると考えていました。しかし、その描写は「フィクションとして、歴史書よりも扇情的に表現されている可能性がある」とも認めています。後年、彼の娘は、父が『緋色の研究』のモルモン教に関する描写に誤りが多かったことを「一番に認めるだろう」と語っており、現代では当時の強い偏見が反映されたものであると理解されています。


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